教皇庁の官報「アクタ・アポストリチェ・セディス」の最新号に故教皇ヨハネ・パウロ2世の最期の日々の記録が紹介された。
この号では2005年4月のバチカンの出来事を報告する中で、故教皇の病状の悪化、そして臨終の様子などを記述している。その主な内容は以下の通り。
復活祭を迎えた3月27日(日)、教皇ヨハネ・パウロ2世は、国務長官ソダノ枢機卿が復活祭メッセージを代読する間、約13分にわたり聖ペトロ広場に面した書斎の窓辺に留まられた。教皇は祝福の言葉を述べようとしたが、かなわず、沈黙のうちに右手で祝福をおくられた。
30日(水)、教皇が鼻から胃に通したチューブによる栄養補給を始められたことが発表された。同日、教皇はバチカン宮殿の書斎の窓に姿を見せられ、聖ペトロ広場に集っていた巡礼者たちを、言葉を発することなく祝福された。これは教皇が公に姿を表された最後となった。
31日(木)、午前11時過ぎ、ミサのために礼拝堂に赴かれた教皇は激しい震えにおそわれ、その直後、39.6度もの高熱に見舞われた。尿路感染による細菌性ショックと心臓・循環器不全がそれに続き、ただちに治療処置がとられ、心拍・呼吸の補助が行われた。教皇の住居は完全な治療設備を備えていたため、住居に留まりたいという教皇の強い意志は尊重された。夕方、教皇のベッドの脇でミサが捧げられた。教皇は目を半ば閉じてミサを共同司式されていたが、聖変化の際、パンとぶどう酒を掲げるところで、右腕を2度、わずかに上げられた。そして「平和の賛歌」が唱えられる間にも手で胸を打つ様子を見せられた。リボフのラテン典礼司教(ヤヴォルスキ枢機卿)によって病者の塗油が行われた。19時17分に教皇は聖体拝領をされた。この後、教皇は聖体を前にした黙想と祈りを望まれた。
4月1日(金)午前6時、教皇は意識があり落ち着いた状態でミサを共同司式された。7時15分頃、十字架の道行き14留の朗読を聞かれ、各留で十字架のしるしをされた。続いて聖務日課の三時課と聖書のいくつかの箇所の朗読を聞くことを希望された。様態は著しく重篤となり、数値的にも危険な状態となった。心臓・循環器、呼吸器、肝臓の機能が悪化し始めた。教皇は周りの人々が続ける祈りに、目に見える形で参加しておられた。
4月2日(土)午前7時30分、教皇参加のもとミサが捧げられた。教皇の意識が薄れる兆候が見え始めた。昼近く、教皇は国務長官ソダノ枢機卿と最後の会見をされ、その後突然高熱に襲われた。15時30分、非常に弱く低い声で「父(父なる神)の家に行かせて欲しい」とポーランド語で言われた。19時少し前に昏睡状態に入られた。モニター装置は生態機能の低下を記録していた。ポーランドの伝統に従って、臨終の教皇の薄暗い部屋は小さなろうそくの灯で照らされていた。20時、教皇の床の傍で神のいつくしみの祝日のミサが始まった。ミサはスタニスラウ・ジヴィッチ大司教によって司式され、マリアン・ヤヴォルスキ枢機卿、スタニスラオ・リルコ大司教、ミエチスラウ・モクルジチ師が参加した。ミサではポーランド語の聖歌が歌われ、それらは聖ペトロ広場で祈る若者や信者たちの歌に重なっていった。
21時37分、教皇ヨハネ・パウロ2世は主のもとに眠りにつかれた。
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