ナチス独裁時代のドイツで、同政権の犯罪と不正義に毅然として異を唱えたクレメンス・オーギュスト・フォン・ガレン枢機卿の列福式が、9日、バチカンで行われた。
フォン・ガレン枢機卿は、1878年、ドイツ北部のオルデンブルグに生まれた。1904年、ミュンスターにおいて司祭叙階。以後、ベルリンで23年間、小教区の司牧に携わった。
1929年、ミュンスターに戻り、1933年同教区の司教に叙階された。司教銘(モットー)は、「称賛も、恐怖も、われを神からそらせず」。
1934年、最初の司牧書簡で、フォン・ガレン司教はナチズムの新異教主義的な正体を暴露、その後も次々と、教会の自由と宗教教育の継続を訴える立場を表明し続けた。
さらに1936年には、ナチス政権がキリスト者をその信仰ゆえに差別、投獄、殺害していると、公に非難した。
1937年、教皇ピオ11世は、ナチス独裁下のドイツの状況を話し合うためにフォン・ガレン師ら司教数人をローマに召還、国際世論の前でナチスを批判する回勅「ミット・ブレネンダー・ソルゲ」を発表した。
フォン・ガレン司教は、1941年にミュンスターで行われた3つの有名な説教に見られるように、その後も、国家と命の権利、市民の自由が侵害されている事実を訴え、ナチスによるユダヤ人やジプシーらの虐殺を痛烈に批判し続けた。
政権の権力者らは、フォン・ガレン師を逮捕・殺害しようとしたが、長引く戦争の中、ミュンスターのカトリック信者らの抵抗を恐れてそれを思いとどまった。しかし、教区では、24人の教区司祭と18人の修道司祭が収容所へ送られ、そのうち10人が死亡、フォン・ガレン司教に非常な苦しみを与えた。
教皇ピオ12世は、1946年2月18日、フォン・ガレン師を枢機卿に任命した。同師のナチス政権下での勇気ある抵抗が認められてのことであった。聖ペトロ大聖堂の大群衆は、フォン・ガレン枢機卿を「ミュンスターの獅子」と歓呼して迎えた。
同年、3月16日、ローマから帰国したフォン・ガレン枢機卿は、瓦礫と化したミュンスター大聖堂前での説教を最後に、その翌日から病の床につき、数日後の3月22日に息を引き取った。
教皇庁列聖省長官ホセ・サライヴァ・マルティンス枢機卿の司式によって、9日午前、聖ペトロ大聖堂で行われた列福ミサには、ドイツから大勢の信者が参列した。
ミサの終わりに大聖堂へ赴かれた教皇ベネディクト16世は、参加者らに挨拶をおくり、フォン・ガレン枢機卿列福の喜びを分かち合われた。
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