世界青年の日(WYD)ケルン大会
ミサ説教
(2005.8.21)

 

 

 親愛なる若者の皆さん、

 私たちのためにイエスがパンとなられた聖なるホスチアの御前で、昨晩から礼拝の内的な歩みを開始しました。このパンは内部から私たちの生命を支え養うものです。聖体において礼拝は一致となるべきです。聖体祭儀によって私たちはヨハネの福音が語っている「イエスの時」の中に身を置きます。聖体を通して、イエスのこの「時」は私たちの「時」になり、イエスは私たちの中に来られます。イエスは、イスラエルを奴隷の状態から自由の身へと導いた神の解放のみ業の記念であるイスラエルの過越しの晩餐を、弟子たちと共にされました。パンをとって賛美と祝福の祈りを唱えられました。しかし、そこでまったく新しい事実が起こります。イエスは神にただ過去の偉大なみ業のために感謝するだけではありません。すべての律法と預言書を包含する「これはあなたたちのために渡される私の身体、これはわたしの血における新しい契約の杯である」という言葉をもって弟子たちに語りかけながら、十字架と復活を通して実現する高揚について神に感謝するのです。こうして彼はパンと杯を与え、同時に、今この時彼が行い言っていることを、その記念として絶えず新たに繰り返し行う使命をも授けました。

 一体何が起こっていたのでしょうか。イエスはどのようにしてご自分の身体と御血を与えることができるのでしょうか。それはパンをその身体とし、ブドウ酒をその血とすることによってです。こうして、イエスはその死を心の底から受け入れ、愛の業へと変えられたのです。外面的に見ればそれは十字架という野蛮な暴力に過ぎません。しかし、内的には自分自身を余すところなく完全に与え尽くす愛の行為となったのです。これこそ、あの高間の晩餐において実現した実体的な変化であって、神がすべての人々にとってすべてとなる(コリント15,28)状態に至るまで世界を変えていく変革を目的とするものです。今はこれだけが、本当の意味で世界を刷新することのできる変化の中心的な行いです。これによって暴力は愛に変えられ、死は生命へと変えられます。なぜならこの行為は死を愛へと変えていき、死はそのものとして内部から征服され、すでにその中に復活が現存するものとなるのです。ですから死は深く傷ついたものだと言えましょう。したがって死がもう最後の切り札ではないということです。これは現代よく知られている例を使用してみるなら、存在の奥底で実現している核分裂にたとえることができるでしょう。憎しみに対する愛の勝利、死に対する愛の勝利です。悪に打ち勝つこの善の内的な爆発だけが、世界を少しずつ変えていく変革の連鎖反応を引き起こすことができるのです。他のすべての変化は表面的なものにとどまり、救いをもたらすことができません。このため、私たちは救いについて話すのです。最も必要なことは実現しています。私たちはこの動きの中に入ることができます。イエスはご自分の身体を人々に与えることができるのです。なぜなら彼は実際に自分自身をまったく与えてしまうからです。

 暴力を愛に、死を生命に変えていくこの最初の根本的な変革は、他のすべての変革をも自分自身と共に引っ張っていきます。パンとブドウ酒はイエスの身体、その血となります。変化はこの点に留まってはなりません。ここからこそ変化が完全に始まるべきです。キリストの身体と血は私たちに与えられます。それは私たち自身も変化するためです。私たち自身、キリストの身体となり、血とならなければなりません。皆が同じパンを食べる、これは私たち皆がまったく一つになることを意味します。礼拝は一致となるのです。神はもう私たち被造物とはまったく異なる存在として私たちの前にいるお方ではありません。神は私たちの中におられると共に、私たちは神の中にいるのです。神の力は私たちの中に浸透し、私たちから出て、他の人々にも伝播し、全世界に広がっていくことを望んでいます。それはその愛が実際に世界を支配するものとなるためなのです。

 最後の晩餐が「礼拝」という言葉の意味に、ラテン語とギリシャ語で異なるニュアンスを与えているのを大変面白いと思います。ギリシャ語で礼拝をプロスキイネーシスと言います。これは服従の行為、神を私たちが従うべき真の基準として認めるということを意味します。それは自由とは生活を享受し何の束縛もないことを言うのではなく、私たち自身が真理と善にかなうものとなるために、常に真理や善の基準に従うことを意味するのです。このような態度は、たとえ最初は自由への渇望がこの真の意味での自由に逆らうことがあるとしても必要なことです。しかし、これを完全に私たちのものにするためには、最後の晩餐によって開かれた第二段階に進む必要があります。ラテン語での礼拝「ad-oratio」という言葉は、口と口を合わせること、すなわち接吻とか抱擁、従って究極的には「愛」を意味します。私たちが従うお方は愛そのものですから、この服従は一致となります。こうして服従は意義あるものとなります。なぜなら、外的なことを私たちに押し付けるのでなく、存在の最も深い真理によって、私たちを自由なものとするからです。

 もう一度最後の晩餐に戻ってみましょう。最後の晩餐において実現された新しさとは、その時から変化の言葉となり、キリストの「時」に私たちを参与させるものとなった、イスラエルの伝統的な祈願と祝福の新しい深さの中にありました。イエスは、毎年の記念として、過越しの晩餐、それは好きなように繰り返すことはできないものですが、を繰り返す任務を私たちに与えたわけではありません。イエスは「彼の時」に入るという任務を私たちに残されたのです。「イエスの時」に私たちは賛美の祈りによって実現する変化である、聖変化の聖なる力を持った言葉を通して入ります。この賛美の祈りは、私たちをイスラエルと救いの全歴史の継続性のうちに導き、同時にこの祈りがその本性からして向かっている新しさを私たちに与えてくれるのです。教会が「感謝(聖体)の祈り」と呼ぶこの祈りは、実際に「聖体の秘跡」を実現します。この祈りは地上の捧げものをまったく新しい方法で神ご自身の捧げものへと変化させ、この変化の過程に私たちをも巻き込む力ある言葉です。このため、この出来事を私たちは「エウカリスティア、感謝」と呼ぶのです。これは感謝とか賛美、祝福を意味するヘブライ語の「ベラカ」の訳であって、こうして変化は主から始まり、主の「時」そのものの実在となるのです。「イエスの時」とは、愛が勝利を博す「時」です。別の言い方をするなら、神は愛ですから、勝利したのは神であるということです。「イエスの時」は「私たちの時」であることを望んでいます。そして、もし私たちが聖体祭儀を通して、主が望んでおられるあの変化の過程の中に引き入れられるなら、確かに「イエスの時」は「私たちの時」ともなるでしょう。ご聖体は私たちの生活の中心となるべきです。教会が私たちに主日にミサに与かるように言うのは、権力の誇示でも押し付けでもありません。

 復活の日の朝、最初に婦人たち、そして弟子たちは、主を見る恵みを受けました。その時から、彼らは週の第一日目はもう主日、キリストの日となったと知りました。創造の最初の日は、創造の刷新の日となりました。創造と贖いは共に進みます。ですから、主日は大変重要な日なのです。多くの国々で主日、日曜日がお休みの日で、土曜日と一緒に「週末」として仕事から自由になっているのは大変素晴らしいことです。しかし、この余暇も神不在では何の意味もない空虚な日になってしまいます。親愛なる友人の皆さん、日曜日の計画の中にミサを入れるのは、一見面倒なことと思われるかもしれません。しかし、少し努力してみれば、すぐにこれこそ休みの日の中心となるべきものだということがわかるでしょう。主日のミサをおろそかにせず、他の人々にも主日のミサの意味を発見するよう助けてあげて下さい。もちろん、ミサから私たちが必要としている喜びが溢れ出るために、ミサをますます深く理解するよう努め、愛するようにならなければなりません。この点についてもっと努力しましょう。それはやりがいのある努力です。そうすれば、教会の典礼の豊かさとその真の偉大さを発見するでしょう。私たちのために自分たちでお祝いするのでなく、生ける神ご自身が、私たちのためにお祝いを整えてくれるのです。ご聖体に対する愛をもって和解の秘跡をも再発見することでしょう。神の慈しみの愛は、この秘跡をとおして、いつも私たちの生命を新たにしてくれるのです。

 キリストを見出した人は、他の人々をキリストのもとに導かなければなりません。大きな喜びを自分のためだけに留めておくことはできません。今日、世界の多くのところで、神を忘却する現象が見られます。まるで、神なしでも何もかもうまくいっているかのようです。しかし、同時に皆がすべてに対して不満やフラストレーションを感じてもいます。「こんなの本当の人生なんかじゃない」という叫びが上がります。それはそうです、これが本当の人生であるはずがありません。こうして神の忘却と同時に、宗教ブームも起こっています。このような状況の中で起こっていることを、何も意味がないとは言いたくはありません。もしかしたら、発見の誠実な喜びかもしれません。しかし、本当のことを言うなら、宗教があたかも大売出しの商品のようになってしまうことが稀ではありません。各自が気に入るものを選び、そしてある人々は宗教を利用して儲けようとさえします。自分で好きなように求められる宗教は、実のところ私たちには何の助けにもなりません。確かに便利です。しかし、いざという時に私たちをまったく見捨ててしまいます。私たちに「道」を示してくれる本当の星を見出すことができるよう、人々を助けてあげてください。その真の道とは、イエス・キリストにほかなりません。説得力ある方法で他の人々をキリストに導くことができるよう、私たち自身もキリストをより良く知る努力をしましょう。このために、聖書に対する愛は大変重要です。そして当然の結果として、聖書の意味を解き明かしてくれる教会の信仰を知ると言うことも大切です。聖霊は絶えず成長して行く信仰の中に教会を導かれ、そしてますます深い真理の中に分け入れさせるのです(ヨハネ16,13)。教皇ヨハネ・パウロ2世は、世紀にわたる信仰がよく整理された形で説明されている「カトリック教会のカテキズム」という素晴らしい本を私たちに残してくれました。そして、私自身も先の教皇様のお望みに従って、この本の要約版「カテキズム要綱」を皆さんに提示しました。この二冊の本は、私が皆さんすべてに心から推薦したいと思う基本的な本です。

 もちろん、本だけでは十分ではありません。信仰に土台を置いた共同体を形成してください。この数十年の間に、福音の力を生き生きと感じさせる多くの運動や共同体が誕生しました。最初にあの東方の博士たちが私たちに示してくれた、あの偉大な巡礼の歩みを共に続ける旅路の友として、信仰における交わりを皆で追求して下さい。そして、新しく生まれた共同体の自発性も大切ですが、教皇や司教たちとの一致を保つことも大切です。教皇や司教たちこそ、個人的な道を求めるのではなく、かえって主キリストがその使徒たちと共に創立した神の大きな家族の中で生きているということを保証する人々です。

 最後にもう一度ご聖体に戻りましょう。「パンは一つなので、私たちは大勢であっても、一つの体です」(1コリント10,17)と、聖パウロは言っています。聖パウロはこの言葉をもって、「私たちは同じ主を受けるので、主は私たちを皆、自分自身のうちに引き寄せられ、私たちもお互いに一つになるのです」と言いたいのです。この事実を生活の中で表さなければなりません。これは赦しの中で表現されるべきです。他の人々の必要に対する感受性の中で表されるべきです。人々との連帯の中に表現されるべきです。近くにいる人々、遠くにいる人々、しかしいつも私たちの隣人であるすべての人々への奉仕の中で表されるべきです。今日、相互奉仕の模範となるような様々なボランティア活動が存在します。現代社会はこれを緊急に必要としています。たとえばお年寄りたちを孤独の中に放置しておいてはなりません。苦しんでいる人々を無視してはなりません。もし、私たちがキリストとの交わりのうちに生き、そして考えるなら、私たちの目は自ずから開かれることでしょう。そうするならば、私たちはただ自分たちのことばかりを考えるのではなく、どこで、またどのように私たちが必要とされているのかを理解するでしょう。このように生き、行動するなら、人々の役にたち、彼らのために奉仕する用意をしていることが、自分の安楽を追求するよりもはるかに美しいことだとすぐに気づくことでしょう。

 私はあなたたちが若者として偉大なことに憧れていること、またより良き世界を作り出すために努力しようとしていることをよく知っています。あなたたちのその願望を人々に、世界に示しなさい。この世界はまさしくそのような証しを、イエス・キリストの弟子たちから期待しています。そして、特に私たちが従っているあの星を、世界はあなたたちの愛を通して見出すことができるでしょう。

キリストと共に前進しましょう。そして、神の真の礼拝者として生きましょう。アーメン。


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