ミュンヘン
ミサ説教
(2006.9.10)

   

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 まず、はじめに皆さんに心からの挨拶をおおくりします。再び皆さんとお会いでき、共にミサを捧げることができるのを大変うれしく思います。さらに、私にとって懐かしい場所や、私の人生において決定的な影響力を持った場所、私の考えや思いをはぐくんでくれた場所を訪れることができるのを本当にうれしく思います。私はこれらの場所で信じること、生きることを学んだのです。

 今回の訪問はまた、私をこれまで導き、そしてまた私と共に歩んでくださった方々、今もまだお元気な方々、またはもう神の元に行かれた方々、すべての人に心からの感謝を表す機会でもあるのです。私はこの美しい故郷と素晴らしい同郷の人々のために心から神に感謝します。

 今、私たちはこの主日のために典礼が選んだ3つの聖書朗読に耳を傾けました。3つとも本質的にはひとつですが、一見二重のテーマをもって展開しています。聖書朗読は3つとも世界と私たちの個人的生活の中心としての神について語っています。

 まず、イザヤ預言者は「これがあなたたちの神である」と叫んでいます。続いて、使徒ヤコブの手紙と福音書も同じことを繰り返します。そして、それぞれ私たちを神のもとに導こうとし、私たちを正しい道へと連れて行くのです。

 しかし、「神」というテーマは私たちが互いに負いあう責任や正義、そしてこの世界への愛を優先する責任感などという社会的テーマとも深く関連しています。

 この点は第二朗読の中で特に劇的に表現されています。この朗読箇所の中ではイエスの親類だった使徒ヤコブが語っています。使徒ヤコブは金持ちや身分のある者と貧しい者たちとの間に差が生じ、貧者がないがしろにされ、段々と傲慢になってきた初代キリスト共同体に向けて話しています。ヤコブはその言葉の中にイエスの姿を、最後には十字架の極貧の中になくなった神の子イエスの姿を映し出しています。                                        

 まず、正義を尊重することから始まる隣人愛は、信仰と神への愛のための試金石です。そこには神の王権とか神の支配というイエスが好んで使う言葉が垣間見られます。この言葉は時代によって代替わりするような王国のことを言っているのではなく、神が私たちの生活と行いのすべてを決定する力となることを意味しています。これこそ私たちが「み国が来ますように」と祈り懇願していることなのです。私たち自身が実際に体験するのを望んでいないような遠い未来のことを願っているのではありません。神の意思が私たちの意志を決定し、こうして神がこの世界を支配するように、そして正義と愛が、世界の秩序を決定する力となるようにと祈るのです。このような祈りはもちろん第一に神に向けられていますが、同時に私たちの心の奥底をも揺り動かすものです。 

 私たちは本当にそれを望んでいるのでしょうか。私の生活を実際にそこに向けているでしょうか。ヤコブが「最高の律法」と呼ぶ、神の王権の律法、それは「自由の律法」でもあります。もし、すべての人々が神に従って考え生きるなら、その時、私たちは皆同じ者となり、まったく自由となります。そうすれば、皆が真の兄弟となるでしょう。イザヤ預言者は第一朗読において神について語りながら、同時に苦しむ人々の救いについても語っています。そしてさらに、わたしたちの信仰とは切り離すことのできない表現としての社会秩序について話しながら、当然私たちの父である神についても語っているのです。

 では、これからイエスが耳の不自由な人を癒されたことを語る福音書に注意を向けてみましょう。ここでも再び、二つの側面を持つ唯一のテーマに遭遇します。イエスは社会から疎外され苦しむ人々を助けられます。イエスは彼らを癒し、こうして彼らが生き、そして共に決定していく可能性を開かれ、平等で兄弟愛に満ちた社会へと導き入れます。これは明らかに私たち皆に関わることです。イエスは私たちの行動に指針を与えてくれます。けれども、すべての出来事はより深い次元をも表しています。特に今日私たちにも深く関わるこのことについて、教父たちは繰り返し説明しています。

 教父たちはあの時代の人々のために人間について語っていますが、実は教父たちが言っていることは新しい意味合いを持ち、現代の私たちにも関係の深いことなのです。特に、現代人である私たちを冒す神に関する聴覚障害があります。あまりにも雑音が多すぎて、私たちにはもう神の声が聞こえなくなっているのです。神について語られることは、もう私たちには時代に合わない非科学的なことに思われてしまいます。神に関することの聴覚障害、もしくは完全に口をつぐむ状態は、当然神と話し、神に語りかけるための私たちの能力も失わせます。こうして神についての決定的な感受性をも失わせてしまいます。私たちの内的な感性は完全に消えかかっています。この内的な感受性の消失と共に、現実を見るための光も劇的に制限されてしまいます。こうして私たちの生活全体が危機に瀕することになるのです。

 福音書はイエスが耳が聞こえず舌が回らない人の耳に指を触れ、その舌にご自分の唾を少しつけ、「エッファタ・開け」と言われたと語っています。福音記者は、イエスがあの時実際に発音されたアラマイ語の発音を今に伝えています。こうして私たちはあたかもその場にいるような気持ちにされるのです。

 ここで語られていることは特殊な出来事ではありますが、遠い過去の出来事ではありません。イエスは同じことを今日も新たな方法で繰り返し実現されているのです。洗礼においてイエスは、私たちが神に耳を傾け、さらに神と語り合うことができるよう私たちにに触れ、「エッファタ」(開け)と言われました。しかし、洗礼の秘跡によるこの効果は、決して魔術的なものではありません。洗礼の秘跡にはさらに成長するための歩みが必要です。

 洗礼の秘跡は、唯一、神を見、だからこそ神について語ることのできるお方、イエス自身との交わりの中に私たちを導きいれます。イエスはご自分の神の見方や神の聴き方、そして神との語り方を信仰を通して私たちと分かち合うことを望んでおられます。洗礼を受けた人々の在り方には発展的な過程が必要です。その中で私たちは神との交わりの生命に成長し、人間に関しても世界に関しても、今一つ別な見方に到達するのです。

 バチカンで私は世界中の多くの司教たちと出会う機会がよくあります。その時の体験について少し話してみたいと思います。ドイツ・カトリック教会は社会事業に関して世界に大きな貢献をし、また必要に迫られているとわかれば、すぐにでもどこにでも援助に駆けつけます。アフリカの国々からローマに定期訪問のためにやってくる司教たちは、ドイツのカトリック信者たちの寛大さに感謝し、その感謝の気持ちを伝えてくれと私に願います。最近バチカンを訪れたバルト三国の司教たちも、共産政権の下で荒廃した教会の再建のために、ドイツのカトリック信者たちがどれほど寛大に援助してくれたかを語っていました。

 けれども、時々アフリカのある司教がこのように言うことがあります。「何か社会的なプロジェクトをドイツに提出するとすぐに扉が開かれますが、福音宣教についてのプロジェクトの場合にはそれほどでもありません」。明らかにそれはある人々にとって社会的プロジェクトはすぐに着手すべき緊急事だが、神やカトリック信仰に関する事柄は特殊なことで、それほど重要ではないとみなされているということです。

 しかしながら、あの司教たちの体験では、福音宣教こそ最優先課題であり、イエス・キリストの神は、人々から知られ、信じられ、愛され、そして多くの人々を回心に導くべきなのです。それは社会的なことも発展し、和解も実現され、根本的な原因を打破してエイズなども克服され、愛と細心の注意を持って病気が治療されるためです。

 社会的な事柄と福音は切り離すことができません。もしも、人々にただ知識と技術と道具だけがもたらされるなら、その貢献はあまりにも小さなものにすぎません。それだけでは、いずれ暴力と破壊力、殺人能力が権力を獲得するための手段となってしまうのです。このような状態では、和解はますます遠のき、正義や愛を実現するための努力からさらに離れていきます。また、さらに技術が人権擁護や愛のために役立つかどうかを図る基準もあいまいになってしまいます。基準は単なる理論ではなく、心を理性と正しい道に沿って行動するよう導くものでなければなりません。

 アフリカの人々もアジアの人々も、私たちの技術や科学に驚嘆しています。しかし、同時に自分たちのメンタリティーこそが最も崇高な理性の型であると考え、アフリカやアジアの文化にさえ押し付けようとする神を人生観から全く除外している西洋のメンタリティーに驚きもしています。彼らは自分たちのアイデンティティーへの脅威をキリスト教信仰の中にではなく、神をないがしろにすることや聖なるものの軽蔑がまるで自由の権利ででもあるかのように考え、有益性のみを未来へ向けての研究成果の最高の基準として高揚するような冷笑主義の中にこそ見出しているのです。

 皆さん、この冷笑主義は決して寛容の一種でも多くの人々が期待し私たちもまた望んでいるような文化的開放でもありません。今私たちが本当に必要としている寛容とは、神に対する畏敬、また他の人々にとって聖なるものをも尊重する態度をも含むものです。他の人々が聖なるものとみなすものを尊重するということは、私たち自身も再び神への畏敬を学ぶことを前提とします。この聖なるものへの尊重は、西洋世界において神への信仰が再び育ち、神が私たちのためにそして私たちの中に再び存在するようになる時、初めて生まれるのです。

 私たちはこの信仰を誰にも強要しません。強制的な改宗はキリスト教に反します。信仰はただ自由においてのみ成長します。神に心を開くよう、神を求め、神に耳を傾けるよう人々の自由に呼びかけましょう。神ご自身や神の行いとそのみ言葉に関する私たちの弱い聴力を癒し強めてくださるよう、私たちもここに一致して心をこめて祈りましょう。主が再び「エッエァタ」(開け)と言ってくださるよう主に願いましょう。典礼において私たちを招き「天にまします」の祈りの中にその本質を教えてくれた祈りの言葉を再び見出せるようお助けくださいと主に願いましょう。

 世界は神を必要としています。私たちも神を必要としています。しかしどのような神を必要としているのでしょうか。今日のミサの第一朗読においてイザヤ預言者は圧迫されていた民に「神の復讐がやって来るだろう」と言います。人々がどのような復讐を考えていたかは私たちにも簡単に想像できます。しかし、イザヤ預言者自身がこの復讐が何であるかを明かにしています。神の復讐は神の癒しの愛の中にあります。預言者の言葉の決定的な説明を私たちは十字架上でなくなったお方、人となられた神の子、イエスの中に見出します。それは「あらゆる暴力の否定」であり「極みに至るまでの愛」なのです。私たちが必要としているのはこのような神です。暴力に対してはその受難を持って対抗し、悪とその権力に対しては憐れみを掲げる神に,私たちが声を大きくして信仰告白するなら私たちも、他の宗教や文化を大切にし、その信仰を深く尊重することになるのです。

 神が私の中におられ、そして私たち自身もが神の忠実な証人となれるよう祈りましょう。

 

 

 

 

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