2012-10-26 18:46:35

バチカンで列聖式:7人の新聖人の生涯(1)


10月21日、教皇ベネディクト16世は、バチカンでミサを捧げられ、この中で7人の福者を新たに聖人の列に加えられた。

「信仰年」に入って、聖人として宣言された7人を、教皇は信仰と福音宣教の模範として示され、その列聖の大きな喜びを皆と分かち合われた。

新聖人7名の人となりを紹介する。

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1)聖ヤコブ・ベルティユー神父(1838フランス-1896マダガスカル)

聖ヤコブ・ベルティユーは、1838年、フランス・ポルミナックの農家に生まれた。

15歳で地元の神学校に入り、1864年、司祭叙階。ロアンヌで助任司祭を9年務める。

修道生活、特に宣教師への召命を感じた彼は、1873年、イエズス会に入会。

1875年、マダガスカルへの宣教に派遣。現地の言語を習得しながら、子どもたちへの教理の指導、貧しい人々や病者への訪問をし、秘跡をとり行い、農業指導にも取り組みながら、サント・マリー島で6年間、初めての宣教生活を労苦のうちに体験した。

ヤコブ神父は非常に謙遜で、熱心な宣教者で、信者たちは彼を深く信頼していた。

しかし、1880年、フランス政府のイエズス会士追放を受け、ヤコブ神父も翌年、サント・マリーを離れなければならなかった。

その後、ヤコブ神父は、タマタブ、タナナリブなどマダガスカルの各地を転々としながら宣教を続けた。だが、1883年、フランス=マダガスカル戦争の勃発により、再び宣教先を後にしなければならなかった。

1894年、第2次フランス=マダガスカル戦争が起きたとき、ヤコブ神父はアンドラナリボにいた。彼は信者たちを連れ、戦火を逃れて避難する途中、現地の兵士たちに捕らえられた。信仰を捨てるよう、何度も強要されたが、それを拒み、1896年6月8日、アンビアティベにおいて銃殺され、川に投げ込まれた。

最後までキリスト教信仰と、自分に託された人々に忠実な生涯であった。

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2)聖ジョバンニ・バッティスタ・ピアマルタ神父(1841イタリア-1913)

聖ジョバンニ・バッティスタ・ピアマルタ神父は、1841年、イタリア・ブレーシャに、理髪師の子として誕生した。信仰ある母親は息子を信心深く育てたが、彼が9歳の時、病で帰天した。母方の祖父が孫の世話を受け持ち、聖トマソのオラトリオ(教会学校)に通わせた。マット製作の仕事を習い始めたが、そこでヴァッリオの主任司祭だったパンクラチオ・ペッザーナ神父に出会い、同神父によって、司祭になるための道が開かれた。

神学校に進み、1865年、ブレーシャで司祭に叙階された。司祭生活の最初の20年間は、同教区内の様々な小教区で司牧活動に従事し、「熱心な素晴らしい神父」との印象をどこにおいても残した。

当時のブレーシャは産業革命の最中で、工業化が進み、多くの社会問題、特に青少年の問題を抱えていた。優れた教育者であり、カトリック運動の推進者でもあったピエトロ・カプレッティ神父と共に、1886年、青少年教育を目的とするアルティジャネッリ会を創立した。そこでは宗教ばかりでなく、高度な職業教育も施され、最も貧しい青少年たちは、キリスト教的にも人間的にも豊かに教育された。

ピアマルタ神父は、多くの成功に恵まれながらも、同時に多くの困難や妨害を被り苦しんだが、神の御摂理への不動の信頼の中に、それらに勇敢に対処していった。

1895年、ジョバンニ・ボンシニョーリ神父の協力を得て、レメンデッロの農業学校を設立し、農業技術の向上と、キリスト教的な技術者の養成に励んだ。

1900年、「ナザレトの聖家族修道会」という男子修道会を創立し、1911年には、続いてマドレ・エリザ・バルドの協力を得て「主のはしため修道会」という女子修道会を創立した。

その後、今日も活躍しているクエリリニアーナ出版社を創設し、カトリック出版を促進させ、その発展に大いに寄与した。現代でもこの出版社のおかげで、ブレーシャはカトリック出版の世界的な中心の一つとなっている。

ピアマルタ神父は「すべてを、すべての人々に」というそのモットーの通り、すべてを隣人のために捧げ尽くし、朝から夜まで絶え間ない祈りの中に、その生活全体を聖化していった。そして、1913年、天の御父のもとに帰っていった。

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3)聖ペドロ・カロンソッド(1654フィリピン-1672グアム島)

聖ペドロ・カロンソッドは、1654年、フィリピンのヴィサヤ諸島に生まれた。

ペドロ青年は、スペインのイエズス会員たちと共にマリアナ諸島への宣教に向かったカテキスタの一人であった。

グアム島では、多くの人々がキリスト教を受け入れたが、宣教師たちを妬んだある祈祷師が、洗礼の水には毒があるという噂を広げた。すでに病気を患っていた幾人かの新生児が洗礼を受けた後で亡くなったが、少なからぬ人たちが讒言者を信じた。迷信に依存する者や不道徳な人々はこれを口実に宣教師たちを迫害し始めた。

1672年4月2日、17歳のペドロと、宣教団の長上ディエゴ・ルイス・デ・サン・ヴィトレス神父は、タモンの村を訪れ、そこで一人の新生児に洗礼を授けようとした。子どもの父親マタパングは初期の受洗者で宣教者らの友人でもあったが、怒ってこれを拒絶した。彼は神父を殺そうとして、仲間を探しに行った。

その間、母親の願いで、神父は幼子に洗礼を授けた。戻ってきたマタパングはもう一人の男と共に、彼らに襲いかかった。敏捷なペドロはこれを避け、逃げることもできたが、ディエゴ神父を一人残すことはしなかった。ペドロは槍で胸を突かれ、ディエゴ神父は剣を頭に受け、殉教した。2人の遺体は海に投げられ、見つかることはなかった。










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