教皇ベネディクト16世は、4日、水曜恒例の一般謁見を行なわれた。
この日、教皇は夏の間滞在されていたカステルガンドルフォを後にされ、バチカン宮殿に戻られた。
ローマは今月に入ってから季節の変わり目を表すやや不安定な天候が続いている。この朝も曇りがちな空となったが、聖ペトロ広場は世界各国の約4万人の参加者であふれた。
謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇はイエスの12使徒をめぐる考察として、聖バルトロマイを取り上げられた。
バルトロマイの名前は、12使徒のリストの中では常にマタイの前に置かれると共に、フィリポかトマスの後に位置していること(マタイ10,3; マルコ 3,18;ルカ 6,14; 使徒言行録 1,13)、また、彼の名は父親にちなんだもので、おそらく「タルマイの子」を意味するアラマイ語のバル・タルマイから来ていることなどを教皇は冒頭で紹介された。
教皇は、バルトロマイは12使徒の中に名前が出ているのみで、彼独自のエピソードを持たない一方、彼は伝統的に「ナタナエル」と同一人物とみなされていると説明。その理由として、ヨハネ福音書でナタナエルがフィリポに続いてキリストと出会っており、それが他の福音書に記された12使徒リストの、フィリポの次というバルトロマイの位置と一致している点を示された。
こうして教皇はナタナエルとキリストの出会いの場面に焦点を当てられた。ナタナエルに、フィリポは「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」と言うが (ヨハネ 1,45)、ナタナエルはこれに対して、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(同 1,46a)と、かなりの偏見を持って反論する。
反駁するナタナエルにフィリッポは、「来て、見なさい」(同 1,46b)という重要な招きをしているが、ここで教皇はイエスを知るためには何よりも生きた体験が必要であることを強調された。キリスト者の人生はすべて、一人、または複数の証人によって今日まで伝えられたことから始まっており、他人の証言は確かに重要であるが、しかし、その後は自分自身がイエスと深く個人的な関係を持つ必要があると述べ、ナタナエルのエピソードは、イエスとの関係において、私たちは言葉だけで満足してはいけないということを考えさせると話された。
ナタナエルがイエスに話しかけられて言う「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(同 1,49)という言葉に注目された教皇は、神の御一人子としてのイエスの御父との特別の関係を認めると同時に、イスラエルの民の王という、待ち望まれるメシアにふさわしい性格をも認めるこの信仰告白の重要性を示された。
教皇は、バルトロマイ=ナタナエルのその後の活動については正確な情報がないとしながらも、4世紀の歴史家エウゼビオは、パンテノという人物がインドにバルトロマイが存在したしるしを見つけたと記していること、また中世期以降、彼が皮をはがれて殉教したという言い伝えが広がったことなどを挙げ、システィーナ礼拝堂の最後の審判の壁画でミケランジェロが左手に自分の皮を持ったバルトロマイを描き、その皮の上に自らの肖像を残したことなどにも触れられた。
聖バルトロマイの生涯は、たとえ彼に関する情報が少なくても、イエスに従うということを、何か特別な業を残さずとも生き、証しできると教えてくれると教皇は述べ、この日の考察を締めくくられた。
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