イスカリオテのユダと
マティアをテーマに
教皇一般謁見
(2006.10.18)

 

 教皇ベネディクト16世は、バチカンで18日、水曜恒例の一般謁見を行なわれた。

 謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇はイエスが直接召し出された使徒たちの考察を終了するにあたり、12使徒のリストの最後に記述されるイスカリオテのユダを取り上げると共に、ユダの代わりに使徒たちに加わったマティアについて話された。

 教皇は、イエスを裏切った者でありながら、12使徒の一人として福音書に記されているユダという人物を見つめながら、なぜイエスはユダをお選びになり、グループの会計係として金入れを預かりながら中身をごまかしていたとさえ記されるユダに、なぜ信頼を与えていたのかという、疑問を発せられた。

 「人の子を裏切るその者は不幸だ」(マタイ 26,24)というイエス自身の厳しい言葉を前に、イエスの選択は神秘の中に残されたままであるとした教皇は、のち後悔したユダが、裏切りの報酬として受け取った銀30枚を祭司長や長老たちに返そうとし、「私は罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言い、首をつって死んだことは、さらなる神秘であり、その行為についての判断は無限に憐れみ深く正しい神にゆだねるべきと述べられた。

 一方で教皇は、ユダはなぜイエスを裏切ったのかというもう一つの問いを投げかけ、それはユダが金銭に貪欲であったためという説や、またイエスの意図は国を政治的・軍事的に解放することではなく、それがユダのメシア観と相容れなかったためという説を紹介。

 しかし、教皇は何よりも福音書中の「悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダにイエスを裏切る考えを抱かせていた」(ヨハネ 13,2)、「十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」(ルカ 22,3)という記述に注目され、惨めにも悪の誘惑に屈したユダの心を指摘された。

 いずれにしても、ユダの裏切りは一つの神秘であると教皇は述べつつ、ここに自分の道に従う者を強制せず、人間の自由を尊重されるイエスの姿を見出された。人間の心が邪悪に傾く可能性は大いにあるが、常にイエスのもとに立ち返り、イエスの視点を持ち、イエスと完全に一致することが、それを防ぐ唯一の方法であると教皇は説くと共に、罪を悔やみながらも絶望し自滅してしまったユダの中に、聖ベネディクトの「神の憐れみに決して望みを失ってはならない」という教えを思い出すべきとも話された。

 そして、ユダのエピソードに、「イエスは私たちの自由を尊重される」、また「イエスは私たちの悔悛と回心を待っておられる。イエスは憐れみと赦しに満ちた方である」という2つの教えを示された。

 最後に、キリストの復活後、ユダの代わりに選ばれ、12使徒に加えられたマティアに言及された教皇は、使徒言行録(1,21−26)に彼が選ばれたいきさつが記されている以外は他に知るところがないが、イエスの地上の生涯の証人として、その死に至るまで忠実にイエスの教えに留まったこの使徒を思い起こされ、ユダの裏切りを償うかのごとく神に召されたマティアのように、私たち一人ひとりも、他の人々の犯した罪を償うため、あくまでもキリストの忠実な証人として生きるよう招かれていると説かれた。

 教皇は謁見の終わりに、前日のローマ地下鉄事故に深い悲しみを表され、犠牲者と負傷者のために祈られた。

 → 教皇一般謁見・カテケーシス

 

 

 

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