親愛なる若者の皆さん
「私たちはイエスにお会いしたいのです」
(ヨハネ12,21)。
これは過越祭を祝うためにエルサレムにやってきたあるギリシャ人たちが、弟子のフィリッポにした願いです。師であるイエスは、ギリシャ人たちのこの希望を知らされて、自分の「時」が到来したと悟りました。それは十字架の「時」、実を結ぶために地に落ちて、朽ち果て死ぬ麦の粒の運命に沿うことによって、天の御父への従順をまっとうするための「時」でした。
イエスにとって、それはまた「栄光の時」「受難と死と復活と昇天の時」の到来でもありました。すべての人のために生命を捧げ、再びそれを取り戻し、与えるための「時」、十字架上で全人類のために罪と死に打ち勝つ「時」でした。
天の御父から栄光を受けるために、私たちもイエスと共に生きるよう招かれている「時」です。
今から20年前、「贖いの聖年」の終わりにあたって、私は青年たちに「十字架」を託しました。キリストはその十字架にかけられ、地上から上げられ,そのためにこそこの世に来られたというその「時」を生きました。その時から、この十字架は若者たちに担がれて、世界青年の日の集いから集いをまわり、世界中を巡礼しながら、罪によって失われた尊厳を取り戻すべく、あらゆる人々に出会いに来る神の憐れみを告げ回っています。
親愛なる若者の皆さん、あなたたちのおかげで、多くの青年たちがあの十字架を見つめ、本物のキリスト者として生きようとその生活を変えていきました。
親愛なる若者たち、十字架に一致してとどまりなさい。あなたたちをも待っている栄光を見つめなさい。あなたたちの心は、しばしば大人たちによって、何と傷ついていることでしょう。わたしは再び皆さんに十字架を託しながら、多くの人々があなたたち若者に信頼していること、そしてキリストが皆さんのうちに信頼を置いていること、そして、ただキリストの中にのみ、あなた方が探している救いがあるのだと言うことを信じるよう勧めます。
今日、若者たちに福音を告げるため、彼らに近づくにはどうしたよいかを再考するのは、どれほど必要なことでしょう。もちろん、若者たちに福音を告げるための議論が必要です。今日もキリストは一人ひとりと出会い、すべての人にその御顔を見せることを望んでいるのだとの確信をもって、それは話し合われるべきでしょう。
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