親愛なる兄弟姉妹の皆さん、
「あなたはキリスト、生ける神の御子です」
(マタイ16、16)。
主キリストから自分は誰だと思うかと問われ、聖ペトロは他の使徒たちの代表としても、その信仰を宣言します。
聖ペトロのこの信仰宣言の中にこそ、完全な教会一致への私たちの歩みの確実な基礎が語られているのです。事実、キリストの弟子たちの一致を望むなら、私たちはキリストから再出発しなければなりません。聖ペトロのように、私たちにも、キリストこそが「角の親石」「教会の頭」あると告白するよう要求されているのです。私は回勅「一つになるように」の中で「キリストを信じることは一致を望むこと、一致を望むことは教会を望むこと、教会を望むことは天の御父の永遠からのご計画による恵みにおける交わりを望むことである」と書きました。
「一つになるように」。ここからキリストの熱い望みに応える一致を実現しようとの私たちの歩みが始まるのです。この一致は単に仲良くしましょうというような漠然とした物ではなく、対神徳の信仰による解き得ない結びつきのことです。私たちはこの信仰によって分裂ではなく一致へと方向づけられています。
歴史の流れの中で、様々な事情から、キリストにおける一致の絆は破壊されてきました。この現実を私たちは今日大きな痛みを持って生きています。この事実を視野に入れて見る時、私たちの今日の出会いは、単なる礼儀ではなく主キリストのご命令に対する答えです。キリストは教会の頭です。私たちは未だに私たちを分離させている事柄、主の御身体と御血に共に与かることを阻止していることを人間的に可能な限り取り除いて行こうと、共に努力して行くことを望んでいます。
このような思いを込めて、バルトロメオ1世聖下、あなたのこの訪問とお言葉に心から感謝いたします。また私はこうして使徒聖パウロと聖パウロの記念を一緒に祝うことのできるのを大変嬉しく思います。今年は1964年1月5日、6日両日にエルサレムで実現したパウロ6世教皇とアテナゴラス1世総主教との出会いの40周年記念でもあります。
バルトロメオ1世聖下、あの優れた二人の巡礼者たちを生かしていた精神を目に見える形で表す私の招待に快くお応え下さって本当にありがとうございます。彼らはお互いに歩みよりながら、教会が誕生したあの場所で初めて兄弟的な抱擁を交わすことを選んだのです。
あの出会いは単なる思い出であってはなりません。私たちにとっての挑戦、お互いの再発見と和解の道を示してくれるものです。それは決して易しい歩みではありません。障害がないわけでもありません。休むことなく一致へのこの努力に邁進するために私たちはあの前任者たちのエルサレムでの感動的な行為の中に、あらゆる誤解と困難を乗り越える力を見出すことができるのです。
ローマの教会は、時に応じて示される有益かつ可能な様々なイニシアティブを通して、確固たる意志と大きな誠実さを込めて、完全な和解に向けて動き始めました。今日私はすべてのキリスト者がそれぞれの場で「皆が一つになるように」(ヨハネ17、11−21)と言った主のお望みの一日も早い実現のために、その努力を倍増するよう心から望みます。すべきことをしなかったり、機会を逃したり、すべての可能性を試さなかったのではないかなどと、私たちの良心に咎められることがありませんように。
私たちが求めている一致が、何よりもまず神の恵みであるということはよく分かっています。しかし、同時に完全な一致の実現を早めることは、私たち自身と私たちの祈りやキリストへの回心にもかかっていることを自覚しています。
私はこの一致への歩みにおいて、常に第2バチカン公会議の教えを指針としてきました。私が様々な機会に言ってきたように、一致に向けて第2バチカン公会議が歩み始めた歩みは、もう後戻りできない歩みです。始められたこの歩みを放棄することはできません。
「あなたはキリスト、生ける神の御子です」。聖ペトロの信仰告白であるこの言葉は私の毎日の祈りの中で一体何回繰り返されることでしょう。1964年1月5日、アテナゴラス総主教はパウロ6世教皇に聖ペトロと聖アンデレの2人の使徒を描いた貴重なイコンを贈りました。2人の使徒は栄光の中のキリストの下で愛の抱擁を交わしています。聖アンデレは主に従った最初の弟子の一人でした。そして、聖ペトロは信仰において兄弟たちを強めるよう召されました。
キリストの眼差しの下における彼らの抱擁は、私たちが共に到達したいと希望しているあの一致に向けて始めた歩みをこれからも続けて行くようにとの招きです。
いかなる困難も私たちの歩みを止めることがありませんように。むしろ私たちは希望を持って、使徒たちの祈りに支えられ、神の御子キリストの御母、聖母マリアの母としての保護の下に前進していきましょう。
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