親愛なる兄弟姉妹の皆さん
この待降節の間、キリスト教共同体は神の御子の託身の神秘を待ちながら、神とそれぞれの関係がいかなるものであるかを再発見するよう招かれています。
待降節のことをラテン語で「アドベントゥス」と言いますが、この言葉はキリストの到来に関するもので、まず第一に神の側からの人類に向けての第一歩を強調する言葉です。各自は神からのこの歩み寄りに心を開き、大きな期待と探求心をもって答えていくよう招かれているのです。
神がただ愛のみに動かされ、自分自身を啓示し与えることにおいて最高度に自由であるように、人間もまた、たとえそれが義務だとしても、神の招きに同意することにおいては自由です。そこで神は人間の側からの愛の答えを待っているのです。
待降節の期間、典礼はこの神への答えの完全な模範を私たちに示してくれます。それは聖母マリアです。次の木曜日、聖母の無原罪の御宿りの神秘を観想します。
聖母は神のみ旨を行うために神のみことばにいつも耳を傾けていました。ですから神を求める信者にとっての最高の模範です。
第2バチカン公会議は、真理と自由の関係というテーマにも注意を向けています。特にちょうど40年前、公会議参加教父たちは、真理を探究する自由、また自己の信仰を自由に告白する権利を擁護する「信教の自由に関する宣言」を承認しました。
この公文書は「人間の尊厳」という言葉で始まります。実に「信教の自由」は各自の人間としての尊厳に由来するものだからです。すべての被造物の中で、創造主である神と自由で意識的な関係を築くことのできる唯一の存在は人間だけです。
公会議は次のように言っています。「すべての人はその尊厳の故に人格として理性と自由意志とを具えていて、真理を、その第一のものとして宗教上の真理を探究するよう人間本性そのものから促され、またそのことを倫理的な義務と感じでいます」。
第2バチカン公会議は「人間は霊的な存在として真理を知ることが可能であり、だからこそ真理を探究する義務と権利もあるのだ」という教会の伝統的な教義をこのように再確認したのです。基本的なこの真理を前提として、個人的にもまた共同体としても保証されるべき信教の自由を、公会議は力強く主張しています。
公会議のこの教えは、40年たった今でもその力を失っていません。事実、今日でも「信教の自由」は完全に認められ保証されているわけではありません。文書の上では認められてはいても、実際には政治権力によって否定されているケースも多くあります。
すべての人がその存在に刻み込まれた宗教上の召命を完全に実現することができるよう祈りましょう。
ベトレヘムの幼子のみ顔の中に、神の真の愛に満ちたみ顔を見つけることができるよう、聖母マリアが私たちを助けてくださいますように。
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