教皇ヨハネ・パウロ2世略歴



 使徒聖ペトロの後継者、第264代教皇ヨハネ・パウロ2世
 (カロル・ヨゼフ・ボイティワ)

 1920年5月18日、ポーランド・クラクフから50キロ地点のワドビチェにて誕生。父親カロル・ボイティワ(職業軍人)、母親エミリア・カツォルブスカ(教師)の次男。

 8歳の時、母を、3年後には兄エドモンド(医師)を失い、父によって育てられる。

 9歳の時初聖体、18歳で堅信を受ける。

 ワドビチェのマルチン・ワドビタ高校卒業後、1938年、クラクフのヤゲロニカ大学に入学し、ポーランド文学を専攻。しかし、39年、ポーランドにドイツ軍が侵攻し、大学は閉鎖。さらに翌年には父が他界し、20歳にして全ての身寄りを失った。

 生活を支えるために、また、ナチ軍によるドイツへの連行を避けるため、化学工場の石切り場で働きながら、勉学と、演劇活動に打ち込み、地下演劇集団「ラプソディコ劇団」にて指導的な役割を果たす。

 この間、司祭職への志が芽生え、1943年、クラクフのアダム・ステファン・サピエーハ大司教がひそかに開いていた ゛地下神学校″に入り、46年11月1日、司祭に叙階される。

 同年、大司教の推薦で、ローマのアンジェリクム大学に入学、神学を修める。

 1948年、神学博士号取得。論文のテーマは「十字架の聖ヨハネの著作における信仰」。ローマでの神学研修の休暇中、フランス、ベルギー、オランダなどのポーランド人移民のための司牧に従事する。

 同年、スターリン体制に支配された祖国に戻り、クラクフ近郊の二エゴヴィッチ小教区助任司祭、その後、サン・フロリアーノ小教区助任司祭、1951年まで大学生担当司祭を勤める。

 この間に哲学、神学の勉学再開。1953年、ルブリン大学に、論文「マックス・シューラーの倫理体系によるキリスト教倫理構築の可能性」を提出。

 後、クラクフ大神学校、および、ルブリン大学神学部にて倫理神学教授。

 1958年7月4日、教皇ピオ12世により、クラクフ補佐司教任命、9月28日、クラクフ司教座大聖堂にて、エウジェニウス・バジアク大司教から司教叙階。38歳で、ポーランドで一番若い司教として、教会と政府の対立の中、困難な司牧の使命を受ける。

 62年から始まった第二バチカン公会議に定期的に出席、『現代世界憲章、ガウディウム・エト・スペス』編纂において、重要な役割を果たす。

 64年にパウロ六世教皇によってクラクフ大司教に、67年1月13日には枢機卿に任命される。同年6月26日枢機卿就任。

 枢機卿時代、5つの世界代表司教会議(シノドス)に参加。

 ヨハネ・パウロ一世帰天後の教皇選挙(コンクラーベ)の結果、1978年10月16日、第264代目のローマ教皇に選出され、ヨハネ・パウロ二世と名乗る。

 教皇登位後は、第2バチカン公会議の精神を引き継ぎ、新しい福音宣教を推進、聖職者、奉献生活者、信徒のそれぞれの使徒職に光を当て、青少年、家族、病者、女性、職業人など様々な立場の人にキリスト者としての自覚を促した。

 また、国や民族、宗教を超えた対話を目指した教皇は、平和の使者として積極的に世界各国を歴訪し、多くの政治リーダー、諸宗教の指導者との会見を持った。

 紀元2000年には大聖年の開幕を告げ、これを機会に世界中の信徒に回心と償い、赦しと和解、新しい希望を呼びかけると同時に、過去の歴史の中でカトリック教会の子らが犯した様々な罪を認め公式に謝罪した。

 「愛の文明」の構築を訴えた教皇は、すべての人々の命と人権を擁護、様々な闘争に揺れ動く世界の中で、戦争や暴力に勇気ある反対の声を上げ、平和への力強いアピールを発し続けた。

              教皇ヨハネ・パウロ2世の
              在位中の主な出来事

               →(1978〜1989)
               →(1990〜1994)
               →(1995〜1999)
               →(2000〜2005)





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