主の晩さんの夕べのミサ
説教・要約
(2007.4.5)

 

 先ほど朗読された出エジプト記(12・1-8, 11-14 )はイスラエル民族の過越祭について詳細に語っていました。もともとこの祭りは遊牧民たちが春の到来を寿ぐ祭りでした。この祭りはイスラエル人たちにとって感謝と希望の祭りとなりました。その中心に過越祭の食事があります。そこでは子羊がほふられ食べられます。この子羊はエジプトでの奴隷としての状態からのイスラエル民族解放のシンボルでした。イスラエルの神はその民にご自分がエジプトの王たちよりはるかに力強い神であることを示されました。神ご自身がこの民の歴史に介入したのです。イスラエルはこの神の愛を決して忘れてはならないのです。そのために毎年その記念としての過越を祝うのです。

 過越祭においては様々な賛美が捧げられていました。神への賛美は賛美する者たちへ神の祝福として戻ってくるのです。こうして、過去の記念は未来への祝福へと関わっていきます。イスラエルの民はエジプトからの解放以後も周辺の強国に脅かされ続けていました。神の過去の解放のみ業を思い起こし、記念し賛美することは、始めた業を完成してくださるよう神に懇願し希望することでもあったのです。それは決定的で完全な救いを希求することでした。

 キリストはその弟子たちと共に、いろいろな意味を含むこの過越の食事をその受難の前に弟子たちと共に摂ることを望まれました。旧約のイスラエルの民の過越祭をその土台として聖体の秘跡を制定した、キリストの新たな過越祭を理解しなければなりません。

 キリストは自分自身を過ぎ越しの子羊として、また神の住まう、また神との出会いの場である神殿として、人々の救いのために捧げられました。弟子たちと共にした過越の食卓で、いけにえの子羊の代わりにご自分の体と血を弟子たちに与えられました。こうしてキリストはご自分からその生命を差し出され、昔の過越は真の意義を持つに至りました。

 イエスの新しい過越の中心には十字架の神秘があります。キリストの十字架から恵みが来ます。神の救いのみ業の記念である過越は、キリストの十字架と復活の記念となりました。これは単なる過去の記念ではなく、私たちを実際にキリストの愛のうちへと導き入れるものです。

 私たちがこのキリストの神秘を絶えずより深く理解することができるよう、そしてその神秘の中にますます主ご自身を愛することができるよう、主に祈りましょう。

 私たちが自分の生命を自分のためにだけとっておくのではなく、主に捧げ、主と共に働くことで、人々が真の生命を見出すことができるよう祈りましょう。なぜなら、主ご自身が道であり、真理であり、生命だからです。

 

 

 

 

 

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