アセンシオン・ニコル・ゴーニ修道女
(1868−1940)
マザー・アセンシオンは1868年スペイン北部ナバッラ州のタファッラで誕生。その生涯は、全世界のあらゆる場にキリストの福音を宣教したいという熱烈な望みに貫ぬかれたものだった。
ごく若くして聖ドミニコ会の修道院に入会、ウエスカ市のサンタ・ローザ修道院で長年間、主に青少年教育に従事した。神のみ旨にますます忠実に生きたいとの望みに動かされ、ペルーのアマゾン森林地帯でキリストの福音宣教に働きたいと、宣教女として志願した。その地で多くの修道院や学校の建設に貢献し、人々の人道的かつ宗教的な教育向上に尽くした。多くの困難に遭遇したが、すべてを現地の人々、最も貧しい人々や特に女性の立場の向上のために犠牲として喜こんで捧げた。
その後、神のしもべ、モンシニョール・ラモン・スビエタと共に「ロザリオの聖ドミニコ修道女会」創立のために協力した。こうしてアマゾンだけではなく、アメリカ大陸、ヨーロッパそしてアジアにまで宣教活動を広げていった。キリストと共に世界のあらゆる場へ福音を伝えるために赴くのだった。謙遜の徳に秀でると同時に、彼女の愛徳もますます大きく深くなっていった。
人々を深く愛するその愛の大きさに従って人々にも善をもたらすことができるのだとの確信を実際の行為をもって示した。そして唯一の願望に動かされて人々への奉仕に献身していた。その唯一の彼女の望みとは、これまで誰も愛したことがないほどの大きな愛をもってイエス・キリストを愛したいということだった。
霊魂の偉大さと崇高さ、深い祈りと明晰な頭脳、判断力の正確さ、感情の完全な支配などが彼女の特質であり、すべてに均整のとれた強い女性であった。いかなる時にも神の中に身を隠し、十字架への大きな愛を絶えず示し、限度をつけない自己犠牲を実践した。
この世を去る前に、マザー・アセンシオンは偉大な事業の実現を見ることができた。
1940年2月24日、パンプローナにおいて時の熟した時、キリストに完全に奉献され尽くしたこの世の生涯を閉じ、神の生命の中へと帰っていった。
マザー・マリアンヌ・コープ修道女
(1838−1918)
ハワイ・モロカイ島の病者の母、マザー・マリアンヌは1838年1月23日、ドイツのハッセンダムスタットで生まれた。彼女の生後1年後、家族はアメリカに移住し、ユチカに落ち着いて間もなく米国市民権を得てアメリカ人となった。マリアンヌは早くから、修道生活に入り自分を神に奉献することを望んでいたが、家庭の事情からその希望をすぐには実現できず、約9年間家庭に留まり、家族たちに奉仕した。ようやく1862年、24歳の時に家庭に対する務めから解放され、聖フランシスコ修道女会に入会、1863年11月19日、誓願を宣立した。
彼女は生まれつき優秀な指導者としての素質を備え、移民たちのために多くの学校や病院設立のためにその才能を発揮した。それらの施設は、あらゆる宗教・人種・文化に属する人々のために開放されていた。これらの施設で彼女は、心の優しさ、高度な事務能力、限りない忍耐など将来ハワイ諸島の病人たちの母として働くために必要なあらゆる要素を身に付けた。1877年管区長として選出された。
6年後彼女は管区長として修道女たちをハワイ・モロカイ島のハンセン氏病院に派遣した。しかし彼女も直ぐに管区長としての職を辞し、自らモロカイのハンセン氏病院に看護のために出発。女性患者や少女たちのために疲れを知らぬ働きをした。モロカイの聖者として有名なダミアン神父の死後、彼の事業をも引き受け、子供たちに奉仕した。
神の愛の有能な道具、マザー・マリアンヌは、多くの人々に敬われながら1918年8月9日神の家へと帰っていった。
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